竹林の賢者


 「リゾーム(Rhizome)」とは竹林の地下茎を意味する語である。1980年にフランスの哲学者がこの語の意味を拡張し、高度に交錯した網状構造一般を指し示す格好のメタフアとして用いた。この種の構造は脳のニューロン系や生態系、社会構造、無機物など自然界に普遍的にみとめられる。私は建築の学生の頃、この概念に大きく触発されたものだ。
「リゾーム」が強力なメタフアとして結実するに先立って、高次元多様体やサイバネテイクス、カオス、フラクタルなどの新しい幾何学の発達があった。リゾームは私たちの住む世界が自己言及(ウロボロス)的であり、無限の入れ子状であり、たった3次元どころか、実質的に無限次元の深度をもってデザインされていることを暴き出す。
 しかし人類はそれまでリゾーム的な形式を全く知らなかったわけではない。たとえばどんな神話の構造も、整然とした階層に収まりきらず、表層的には矛盾やもつれに満ちているものだ。人はそこに深層におけるリアリティーを看破し愛してきたのだった。
 あるいは世界各地の土着的な住居集落は「生活」という長期的な弁証法過程を通り抜けて形成されたわけで、私はそこに神話形成と同様の法則を感じる。
 さらにケルトやアフリカ、アジアそして環太平洋の造形、身近なところで縄文美術や密教美術などに共通な、途方もなく込み入ったかたちへの執着をみれば、先史時代の人の方がよほどリゾーム的な形式に馴染んでいたといえる。
 むしろ一神教的宗教や王権、ファシズム、科学至上主義など、いわゆる「西洋的なるもの」がリゾーム的な現実を今まで意図的に隠蔽してきたのだ。なぜなら去勢された静的な世界観だけを庶民に信じさせた方が管理しやすく、自らの権威維持に好都合だから。
 ところが今世紀になって科学はついに自分の方から禁(タブ−)を侵した。リゾームは幾何学的な裏付けを伴って再発見された。西洋の良質な知性は今ようやく本格的な自己否定を始め、まったく異質な体系を理解しようとしている。極度に西洋化された近代人にとってその自己否定の苦痛は相当なものであろうし、犠牲も少なくはないだろう。
 この手の研究は「量」を唯一の神と崇める従来の科学者の手に負えるものではない。彼らにとってリゾームは永遠にメタフアの段階に止どまるだろう。独創的な造形思考こそがリゾームから知られざる普遍的な機能を引き出すことができる。普遍的な機能とは「意味」であり、かたちは来たるべき「言葉」である。これからはリゾーム的な形式を駆使して、従来の言語では語りえなかった内容を厳密に表現できるようになるだろう。その内容が普遍的であれば子どもも理解するだろうし、方言も生まれるぺくもない。
 リゾーム、それは最も魅力的で挑発的な「かたち」である。おそらく今後数千年にわたって人類が取り組むべき課題の殆どがここに潜んでいる。いわば私たちは、新しい文明の黎明期に立ち会っているわけだ。世界の構造を理解しようとする哲学的な衝動が、芸術行為とふたたぴ一体となる。オリジナリティと普遍性は両立する。失われた人間性もおのずと回復されるだろう。
 まだその仕事は手をつけられたばかりだ。

                      1996年5月30日 日詰明男
「mehr licht」VO1.2(1996)


                            

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