周期的曼荼羅を超えて
日詰明男

 最もシンプルな無理数である「黄金比」は、きわめて多様で強力なフラクタル構造を生む。
植物の多くが黄金比を用いるのはそのような数学的必然によるものである。黄金比は文字通りの「多産なる点:PregnantPoint」であると言えよう。
 この幾何学的構造物「六勾」もまた、黄金比の生み出したかたちのひとつである。
 6方向に伸びる平行線群が互いにかわし合って交錯する六勾は、無限の3次元空間を自己相似的に裁断する。ここにあいまいさや恣意は微塵も存在しない。
 この空間組織は次の点で従来の静的な結晶構造と決定的に異なる。
 それは本質的に周期的ではなく、割り切れぬ非整数的な(無理数的な)空間扶序であるということ。その性質は一般に「準周期構造」と呼ばれる。
 同様の準周期構造は平面組織(2次元空間)や音組織(1次元空間)においても存在し、私はそれらを総合した造形を展開しているが、その詳細は発表済みの文献に譲ろう。
 六勾に対しては、いろいろな解釈が可能である。例えば準結晶のモデルであるとか、6次元単純格子の3次元空間への射影とか。もちろんウイルスや棘皮動物など自然界の造形にも村応するものが発見されるであろう。
 建築構造としても特筆すべき効果が多々あり、私は六勾を来たるべき建築形式のプロトタイプととらえている。いずれ人はこの原理を基に新しい建築・都市空間を開花させ、洗練し、実際に住むようになるだろう。そしてそれと歩調を合わせるように、緩慢に人類の意識の形式も変革されてゆくことであろう。そこで生まれ育った知性は、弁証法をも超えた高度な論理的思考をあたりまえのように身につけるにちがいない。

建築の力
 一般に、人は高度に有機化された空間で生活することによって、精神にその構造を浸透させ、アーティキュレーション(articulation)を身体的に学びとる。建築体験としてこれ以上に高揚することはない。この一連の過程は音楽体験に酷似している。
 言葉を介さずとも、人間にはこのような仕方で学ぶ能力があり、そして学ぶべき内容がある。
 こうして人は精神に建設された新しい寺院を通じて実際に思考し、世界を理解することができる。これが建築の最も重要な力であり、幾何学構造のカでもある。
 同じ事を作り手の立場で言うと、人は理解しただけの世界を一個の建築として地上に再構築できる。これこそ人間の天職だと私には思えてならないのだが。
環状列石やゴシック聖堂、アジアの寺院などはその時代の人知が構想しえた世界観を、余すところ無く情報化したものだ。建築は時代精神・思想の果実である。

建築としての曼荼羅
 自己も含めた世界全体を有限の紙面にそっくり写し取りたい、すなわち世界を完全に理解したいという人間の真摯な欲求。実はその衝動において宗教も芸術も自然科学も区別はない。すなわち全ての学芸は、好むと好まざるとにかかわらず建築として結実することを志向している。
 なかでも曼荼羅はきわめて成熟した建築といえる。それは密教僧の住む家に他ならない。
これは比喩で言っているのではない。彼らは瞑想と称しているが、実は曼荼羅の内部空間に実際的に生活しているも同然だ。彼らは曼荼羅のシステムを借りて言語を超えた思考に日頃親しんでいる。触覚的な視覚を有する者ならば、実際に建築せずとも設計図の中で十分生活できるのである。
 世界の底無しの密度を細部の細部まで余すところ無く書さ込もうとするかのような圧倒的密度。マクロからミクロまでを包摂するかのような入れ子形式。世界のアーティキュレーションを再構築すべく、当時知られている限りの幾何学を援用して、無数の要素が有機的に階層化され、グルーピングされる。
 曼荼羅に限らず私はそのような成熟した宗教的構造物に注目する。
 3段論法を万能と信じて疑わぬ近代知性が置き去りにしてさた感覚。優れた宗教的遺構には今なおそれが脈々とオーラを発して生きている。現代科学がようやく着目し始めた自己相似のアイデアや共生の思想などが、古人によって先取りされていたことに今後ますます評価が集まるだろう。そして現代人は今までいかに貧しい現実観に固執していたかを恥じるであろう。
 しかし、さしもの密教僧の家も、大自然の織りなすアーティキュレーションに比べればまだまだ素朴の域を出ないと私は主張する。
 もし空海がフラクタル幾何学を学んでいたら、現存するような曼荼羅の形式は取っていなかっただろう。いくら曼荼羅で自己相似性が考察されていたと言っても、その構造はかなり硬直したものである。自然はもっとしなやかだし、私は正直言って曼荼羅には住みたくはない。
 さらに曼荼羅に批判を加えるならば、それはあまりにも象徴的に過ぎる。彼らはまるで使用した幾何学の限界を隠蔽するかのように、必要以上に語り過ぎているように思う。
 世界を今すぐ手に入れたいという性急さは人類の最大の弱点かも知れない。
 この点はムスリムの造形や砂曼荼羅のいさぎよさに学ぶべきかも知れない。私たちは前進するためにこそ、あくまでも過不足無き透明なイデアの表現に踏みとどまるべさだ。永遠に偶像の出る幕はないのである。人は語りうる以上のことを語るべきではない。
無理数的な曼荼羅「六勾」に類する無理数的な自己相似構造は、来たるべき建築そして曼荼羅の先行形態infra−Structure)となろう。私たちは全く新しい曼荼羅建設に着手しなければならない。
この構造の上に、従来では語り得なかった自然世界の実態が精確に記述されることだろう。
また、従来は問われもしなかった問題が問われるようになるだろう。そして後続者はまさにこの構造を通して今よりもっと良く自然を理解するだろう。私たちの認識の解像度は確実に高まる。
 いずれそれらも記号化され、統語法も収斂し、あたかも言語であるかのように共時的に扱われる時が来るだろう。そう、そうなればもう事実上の言語である。
 その頃にはこの類の構造に飽き足らぬ人々がデカダンスを形成し、次なる思考の形式を模索していることだろう。
 一般に「作品」はまず作者自身の精神が住む建築であるべきであり、作者が世に提供した世界認識装置だといえる。さらに次の事実を確認しよう。いかに優れた「作品」であろうと、人間の手による限り所詮はザルにすぎないと。なぜなら「作品」は世界のある局面をすくい取り、記述しはするが、宿命的に取りこぼしが存在するからだ。その背景に追いやられた領野には未知の法則が無限に潜んでいると思っていい。
 だから透明でより有機的な構造を産み落とし、絶えず既存の世界観を相対化しながら先へ進まねばならない。住んでいる家が窮屈になったらまた新しい家を造ればよい。偶像を引き合いに出して自分自身を欺いている場合ではないのである。
 私たちの意識の有機度が少しでも自然のそれに肉薄した分、世界は自らの秘密を明かし続ける。その永遠の過程があるばかりである。
 即身成仏・神秘体験ばかりを追い求める人には、この気の遠くなる緩慢さに耐えられず絶望するかもしれない。だが私はむしろ希望に思う。そのような仕方によってのみ、私たちは自然界の奏でるウロポロス・カノンに唱和できると思うからである。私たちも不完全だが、世界もやはり同等に不完全であるのだから、見通しは明るい。

                        (ひづめあきお、建築家)

[文献]
Akio Hizume,”GOETHEANUM 3",HYPERSPACE Vol.2,No.1(1993),高次元科学会.
Akio Hizume,"STAR CAGE:New Dimension of the Penrose Lattice",FORMA,9(1994),252−272,The Society ofSciense on Form.
日詰明男「黄金の音楽構想」,形の文化誌[2](1994)工作舎.


初出: マンダラ尾道曼荼羅展カタログ(1998)

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