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カテゴリー3:宇宙的ナンセンス
by 日詰明男
前回、カテゴリー3の労働について書いて思い出したことがある。

まだ学校に上がる前のこと、山国で生まれた私にとって、年に一度海水浴で目にする「海の水平線」は不可解きわまりないものだった。
海の果てを一度でいいから確かめてみたいとずっと思っていた。
そして家族旅行で海へ行った折、私たちは遊覧船に乗り、ついにそのチャンスが訪れたのである。

船窓から水平線をずっと見つめていると、希望的観測も手伝って、水平線がだんだん近づいてくるように感じたものだ。
やがて岸が前方に現れ、港に着いた。
船を下りたとき、「なんだ、海の果ては意外に近いな」と思った。
後日、保育園の友達に「僕は海の果てに行ってきた」と自慢したのは言うまでもない。

山登りを趣味とする伯母が家に遊びにきたときのこと、伯母は富士山に登った話をしてくれた。
頂上は空気が薄いということ、そして大勢の人が登るから大変な混雑であることを聞いたとき、僕は「それは大変だ。空気がなくなってしまうではないか」と言った。
伯母は「自然はそんなに小さくないから大丈夫」と言って笑った。

こうした子供じみた発想は今となっては笑い話である。
ところが大人になっても笑うに笑えない似たような話がある。

先日、太平洋に面した海岸を訪れた時のことである。
その海岸では、おびただしい数の鉄製型で、数えきれないほどの巨大コンクリート製ブロックを大量コピー生産し、片っ端から海に沈めていた。
聞けば太平洋の荒波からの侵食を食い止めるために、毎年こうした護岸工事をしているのだという。
見回すと岸辺に人家があるわけでもなく、別段さしせまった状況ではない。
国土地理院発行の地図を書き換えたくないという国家の執念だろうか?
”自然”万事塞翁が馬。
たとえここの海岸が侵食されても、別の海岸には砂丘が築かれるであろう。
自然は大抵帳尻が合うようになっている。
大海の摂理に人間が立ち向かうなど無謀行為も甚だしい。

この公共土木工事で、膨大な資材、膨大な重機、膨大な燃料、膨大な人手が海の藻屑へと消えてゆく。
先ほどの富士山の話を借りると、頂上に空気を供給すべく窒素と酸素を適度に配合した空気ボンベをせっせと運び上げ、頂上で空にしては麓に持ち帰るという行政サービスをしているようなものである。

地元の人の話では、最高純度のコンクリート・ブロックを維持するため、抜き取り検査を怠らない念の入れようだとのこと。
こういう工事に限って、手抜きはないのである。

このような無意味な労働によって、関係者は経済的に潤っているのだろう。
こうしたことに税金が使われていることに国民は怒ってしかるべきである。
だが批判の矛先を当事者に向ければ済むほど浅い問題ではない。
被告もまた、税金にたかることを余儀なくされている不憫な人々である。
仕事の内容は精神的な拷問以外の何物でもないのだから。
以前、ソビエト連邦では政治犯に対して、毎日朝から晩まで、お椀に入れた砂を棒でつつく作業を強制したという。
どんなに強い精神の持ち主も、無意味な行為を延々とさせられると、いずれ発狂してしまうのだそうだ。
身体を傷つけず、十分な食料も与えながら、ジュネーブ条約に違反することなく、確実にじわじわと精神だけを壊す方法である。

どんなに経済的な見返りがあったとしても、「無意味な行為」に対して人の心は強くできてはいない。
志を失った製造業、土建業の人々の心は想像以上に病んでいるはずである。

つまるところ、この護岸工事で誰も幸福になっていない。
生態系ももちろん壊している。
宇宙的ナンセンスとはこのことである。

この種の労働が昨今あまりにも多いのではないだろうか。


|| 09:42 | comments (x) | trackback (x) | ||
民主主義的階段
by 日詰明男
民主主義階段
アトランタの個人邸宅に76段の民主主義的階段を作った。全長80mである。
秩父、オハイオ、フィティアンガ(ニュージーランド)に続き、今回が4本目である。
途切れのない一連の階段としては、今までで最も長いものになった。
自然の勾配にしたがって緩急がつけられ、なめらかな抑揚が生まれるように設計した。
こうして階段の上り下りは、無意識下での一幅の音楽的経験となる。

素材は当初丸太を予定していたが、たまたまホームセンターで目にしたアムトラック払い下げの枕木に施主と私の心が動き、土壇場で枕木を採用することにした。
2.6mほどのものが1200円ぐらいで、日本国有鉄道のそれより数段安い。
アメリカ開拓時代以来、恣に森林伐採してきた後の廃材を、このような形で再び生かすことはとても有意味である。

今回の土木作業ではグアテマラ人が毎日手伝ってくれた。
一日少なくとも5段出来れば十分と思っていたが、彼らの活躍で3倍以上の早さではかどり、雨にたたられながらも完成まで1週間とかからなかった。
昨年コスタリカで覚えた片言のスペイン語が、彼らとのコミュニケーションにとても役立った。
彼らは非常によく働く。
早朝から日暮れまで、雨が降ろうがなんだろうが土曜も日曜もなく、愚痴ひとつこぼさず、朗らかに働いてくれるのはありがたい限りだが、複雑な気分である。
聞けば、彼らの就労は一応違法だとのこと。しかし事実上彼らの労働力がないと現代アメリカ経済は成り立たないので、公然のものとなっている。
彼らの賃金はけっして高くはないのだろうが、その大半を故郷に送金し、手元には殆ど残らないのだそうだ。
僕は彼らに言った。コスタリカへ行くべきだと。

着工前の測量と設計に十分時間をかけただけあって、施工の誤差はほとんどなく、最後の一段は予定の位置で収まった。めでたしめでたしである。

その後、アメリカで活躍されているランドスケープ・アーキテクトのTakeo Uesugiさんが訪れ、排水の便を工夫してくださることとなった。踏面にも砂利と木片チップを撒いていただく予定である。

写真は仕上げ前の状態である。

施主は既に何度も上り下りされ、民主主義的階段特有の快適さを実感していただいたようだ。
「登れば登るほど疲れがとれる階段」というキャッチ・フレーズもあながち誇張ではない。

この階段を作っていつも思うことがある。
一段一段作るのは根気もいるし、大変な重労働ではある。
でも作れば作っただけの甲斐があるということを、こんなに直接的に体感できるものもあまりないのではないだろうか。
特に民主主義的階段は、段数が多ければ多いほど効果的である。

努力が過不足なく報われる、ということ。
このあたりまえのことが通用しないのが現代である。

ここに4種類の労働がある。

1. やり甲斐のある労働で、経済的報酬も得られる。
2. やり甲斐のある労働だが、経済的報酬が得られないもの。
3. 無意味な労働だが、経済的報酬は得られる。
4. 無意味な労働ゆえ、経済的報酬が得られないもの。

カテゴリー1と4は自明であり、自然の法則に沿うものであるが、人間社会で特徴的なのはカテゴリー2と3の存在である。

カテゴリー2の場合の代表例として、あまりに先駆的な芸術や科学が上げられよう。誰からも理解されないゆえに経済は発生しない。しかし作者自身はその価値を確信しているから、達成したときの満足度はお金などでは量れないのである。

問題はカテゴリー3である。
年度末調整公共土木工事や戦争に代表されるように、お願いだからやめて欲しい労働に対して、法外に充実した手当てが出ている現実がある。
これは癌細胞にだけ栄養を送るような逆噴射治療に等しい。
彼らの経済的報酬には根拠が無く、いつ消えても不思議はないことを本人が本能的に一番よく知っている。
その不安があるからこそ、このカテゴリーに属する人は際限なく強迫的に富を独占しようとする。

周りがこういう大人ばかりだから、青年はこぞってカテゴリー3を志し、それを「勝ち組」と呼ぶ。
カテゴリー3に比べれば、「ひきこもり」の方がはるかにましだと思うのは私だけだろうか。

こうしてカテゴリー1に属する人々、たとえば細々と暮らす腕のいい職人が社会から消えていかざるをえないのは嘆かわしいばかりである。


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