2007-05-26 Sat [ 政治経済 ]
by 日詰明男
国民投票法が通り、現政権は憲法改悪に向けて着々と準備を進めている。彼らは自衛隊を晴れて正規軍にしようとしている。
恐怖は肥大し、また殺し合いが始まる。
来る国民投票は「憲法を守るか守らないか」を争点にすべきではない。
憲法9条は「守る」だけでは不十分である。
「憲法に9条が書かれてある」ことだけで安心していた護憲派は反省すべきである。
今まで憲法は一度たりとも守られたことはない。無視され続けただけである。
憲法違反がことごとく見過ごされ、無意味な防衛費がいつのまにか世界第三位にも膨らんでしまった。
「世界に誇れる憲法」とはお世辞にもいえない。
このままでは「どうせ今の憲法でも自衛隊は事実上の軍隊でしょ。ならお墨付きをあたえてあげればいいじゃん」ということになる。
使ってなんぼの憲法である。
コスタリカのように使ってこなかったツケが今、このような形で回ってきたともいえよう。
そこで、こう提案しよう。
国民投票で「憲法を変えない」という決定が下された暁には、即刻自衛隊は憲法違反として解散するのが筋である。
つまり「自衛隊を解散するかしないか」に焦点を絞って国民投票に臨むべきである。
これならば国民投票の甲斐がある。
国民投票は護憲派にとって千載一遇のチャンスに化ける。
劣勢は攻勢に転じうる。
60年めにして初めて国民が9条を能動的に行使できるかもしれない。
この国民投票は平和憲法を使う最後のチャンスになるかもしれない。
憲法の番人であるはずの司法は60年間機能しなかったのだから、国民が直接裁くしかない。
*
護憲派の諸君。
国民が9条をはじめて行使するチャンスを、安倍政権が用意してくれた。
憲法違反を重ね続け、世界第三位にも膨らんだ無意味な防衛費。
自衛隊を解散して浮いた資金をどう有効に使うか具体的で現実的な夢を語ろう!
コスタリカに倣って、「兵士の数だけ教師を!」でもいい。
「兵器の数だけ図書館を」もいいだろう。
防衛費は税金をドブに捨てるようなものだということを論理的に証明しよう。
年間防衛費は4兆8563億円、夕張市の借金の77倍である。
防衛費が浮けば、借金で苦しむ他の地方自治体もひっくるめて、ゼロから再出発させられるのである。
その方がはるかにましだ。
これもまた日本人は「自己責任」と言って助けようとしないのだろうか?
かつて政府は銀行に莫大な公的資金を投入し、あげくの果てに外資系に払い下げたではないか。
現政権は外国の銀行を助け、地方自治体を見捨てたのである。
もし自衛隊が解散したとして、今までアメリカから言われるままに気前良く買い続けた兵器をどうするか?
いいアイデアがある。
いたるところに野ざらしにして風化させればよい。
自分たちがいかに愚かで、無駄なことにお金を費やしてきたか永遠に忘れないようにするために。
公正な国民投票が行われるよう、選挙管理委員も国民がしっかり監視する必要があるだろう。
最近の選挙のやり方を見る限りでは、この国の選挙は国連に監視してもらう必要があるかもしれない。
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2007-05-25 Fri [ 政治経済 ]
by 日詰明男
永田町に建つ国立国会図書館にはほとんどすべての書籍が収められ、国民は自由に閲覧できる。私も利用したことがあるが、大変便利なサービスである。
ありあまるコンピュータ端末から書籍を検索し、15分も待てば目的の書物が自動的にカウンターに届くシステムである。
東京でしかこのサービスを享受できないのはとても不公平だと思う。
国会図書館級の図書館を各市町村に作ってはどうだろう?
「それは夢物語だ」と高を括らず、ちょっと耳を傾けて欲しい。
周知の通り、現在の国会図書館に収められている書籍はすべて著者あるいは出版社から寄付されたものである。
私は各市町村すべての図書館に著者/出版社は本を寄付すべきだと言っているのではない。
そうではなく、各市町村すべての図書館が出版された本をすべて買い上げてはどうか、と提案したいのである。
それを荒唐無稽と感じるだろうか?
たとえば各地で負の財産となっているダムや箱物公共施設の建設に費やした税金を、もし本の購入にあてたらどうなるか比べてみよう。
ダムなどの大規模公共工事はどういうわけか500億円前後と相場が決まっているらしい。
一方、日本で出版される本は年間7万点余りであり、一冊の値段の平均は約1200円である。
つまり年間に出版される本を、片っ端から1冊ずつ買い上げたとしても8800万円である。
ダム一基作る資金で568年分の書籍を買い続けることができる計算である。
年間防衛予算ではどうか?
4兆8563億円の年間防衛費を当てれば、実に55000年分の新刊をすべて購入できる。
現在市町村は2300ほどあるから、それで割れば一館当たり24年分の書籍購入が可能である。
強調するが、これはたった一年分の防衛費を使った場合の話である。
このように、国立国会図書館を各地に作ることは不可能ではないし、税金のよほど活きた使い道ではないだろうか。
国立国会図書館の本はいわば雛形見本である。
立ち読みで済むものは図書館の雛形を読めば十分である。
本当に気に入った本は、誰でも手元に置きたくなるもの。
その場合はあらためて書店に発注して購入し、私物にすればよい。
全国で約2300の図書館が無条件に新刊本を買い上げてくれることが約束されていれば、印刷製本の経費程度は確保されるので、出版したくても資金的に踏み切れなかった人には朗報だろう。
ある意味、全国の図書館が出版経費を助成するものととらえても良い。
これを本の価格の基準としてはどうか。
つまり、図書館以外で本が売れた場合にはじめて印税や利益が発生するというルールで市場価格を決めればよい。
こうすれば本の価格は従来よりかなり低く押さえられ、優れた本は売れるべくして売れるだろう。
従来の本の価格は、ほとんど売り手側の言い値で決められている。
再販制度などというわけのわからない慣習も未だに幅をきかせている。
諸悪の根源は明らかで、常軌を逸した書籍流通システム(大手取次店の寡占)に尽きる。
出版社は必要以上の部数を出版し、宣伝広告を無闇にメディアに流し、流通は大手取次店に完全に仕切られ、書店は取次店の意向に沿った陳列をし、そしてその大半が返本され処分される。
これでは紙資源も無駄になるし、なにより本の価格に以上のリスクや中間マージンが上乗せされるから、本の価格は不当に高くならざるを得ない。
だからますます本が売れず、出版社も著者も読者も皆不幸になっている。
すべては取次店帝国に奉仕する仕組みだといえよう。
各市町村に国立国会図書館ができれば、大手取次店の存在理由はなくなる。
そして著者、出版社、読者が最大の恩恵を享受するだろう。
予想される反論
1.「国立図書館を各市町村に作られたら一般書店は困るではないか」
おそらくそうはならないだろう。存亡の危機に直面するのは中途半端に大規模な大型書店だけだろう。(店舗床面積だけを誇る大規模書店の書棚の希薄さに辟易している利用者は多いのではないだろうか?)
むしろ小規模な書店の意義こそ高まるはずである。
顧客のニーズを踏まえ、膨大な出版情報から厳選し、センスの行き届いた書籍リストを顧客に提示する役目はますます必要とされるし、創造的な仕事でもある。
ちょうど敬愛する人の家に招かれて書斎の本棚を眺めたときのことを想像してほしい。背表紙の配列が多くを語り、興味をそそられ、思わす本を手に取ってしまった経験が誰しもあるだろう。
書店の個性はこのように開花するだろう。
かくして本当に求められている本だけが増刷され、著者や出版社に正当な利潤が入るようになる。
時代に求められなかった本はもちろん利潤を生まないが、図書館が購入してくれるのでそれほど深刻な損害にはならない。
2. 「出版に経費がかからなければ、安易な出版が異常に増えるのではないか?」
図書館での「立ち読み」で済むような内容の本は、確実に利潤を生まないという点に注目して欲しい。
利潤を生まない出版に労力を払う人は減るだろう。
おそらく出版総数は減りこそすれ、増えることはないと思う。
とはいえ利潤を度外視してまでも出版しようとする人は確実に増えるだろう。
そういう人はそれだけ表現したいことがあるのだからやむをえない。
いわゆる「表現の自由」である。
出版の大変な労力を思えば、その数は増えたとしても高が知れている。
3. 「そんなに膨大な書籍を物理的に収蔵できるのか?」
それが不可能ではないことは、現に永田町の一等地で、すべての書籍を収蔵し続けている国立国会図書館が実証している。
最近のデータによると、自動書庫システムを使って閉架書庫とすれば、10m立方の空間があれば7万冊など軽く収蔵できるそうである。
年々一辺10mの立方体が四方八方に増築され、本当に映画「CUBE」のような建築が実現してしまうかもしれない。
4. 「本のマイクロフィルムに変換したり、データ化したりすればもっと小さくなるのでは?」
そもそも情報をできるだけコンパクトにまとめるべく発明されたものが「本」である。
標本や美術作品を収蔵しなければならない博物館や美術館と比べても、図書館の収蔵効率が抜きん出て高いのは当たり前といえよう。
「本」という十分に小さくまとめられた情報を、さらにマイクロチップなどに圧縮する必要はないと私は思う。それは蛇足というものである。
まして、本の重さや紙の手触り、インクの匂いなども決して落とすことのできない書物の魅力なのだから。
5. 「大手取次店は既得権を守ろうとして徹底的に妨害するのでは?」
取次店が、著者と出版社と読者の利益を妨害するのだとしたら、それは宿主を滅ぼす寄生生物以外のなにものでもない。
だが、取次店はそのネットワークを生かして、このまま雑誌や新聞の流通に特化できると思う。
図書館や書店に加え「雑誌店」として住み分けできるだろう。
書籍を雑誌化し、書店をコンビニ化したのは他ならぬ彼ら取次店なのであり、彼らの最も得意とする分野である。
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2007-05-20 Sun [ 未分類 ]
by 日詰明男
映画「博士の愛した数式」をテレビで見た。原作は読んでいないが、映画から類推するに、数学に過剰なロマンを与えすぎていることが伺われる。
「数学は世俗とは無縁の抽象的真実」という認識はあまりにもステロタイプである。
数学者を浮世離れした人格として描きがちな背景には、作家の数学コンプレックスがあるのだろう。
こうした表現は数学をかえって近寄りがたいものにしてしまう。
数学は世俗だろうがなんだろうが遍在する。
世俗を見くびってはならない。
「数学は現実の生のデータである」(スペンサー=ブラウン)
オイラーの公式e^(πi)+1=0は確かに美しいが、まるで信仰の対象のように取り上げるのはいかがなものかと思う。
オイラーが生きていたら、このような無用な神秘化を決して歓迎しないだろう。
長沼伸一郎著「物理数学の直観的方法」39-48頁を読むことをお勧めする。
わずか10頁そこそこで、この等式の「あたりまえさ」が中学生でも理解できるように解説されている。
あたりまえだからといってオイラーの功績が過小評価されるわけではなく、むしろ全く逆である。
当たり前のことにかぎって、人はなかなか分からないものである。
日常から神秘を発見する仕事も重要だが、今まで神秘と思っていたものが氷解し、日常化する瞬間にも、人は大きな感動を経験する。
いろいろ批判はあるが、この映画のラストシーンは出色だった。
これは文学では表現できない領域である。
演劇でもこれは難しいだろう。
映画ならではの仕掛けをうまく使った。
原作の不満を払拭し、昇華した観がある。
無常を超越した「時間」の哲学。
「逆流する時間」がさりげなく描かれている。
私は黒澤明の「夢」やタルコフスキーの手法と同質のものを見た。
早速調べると、この映画監督、小泉堯史氏はやはり黒澤の弟子だったそうだ。
彼は黒澤の良き後継者かもしれない。
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2007-05-04 Fri [ 政治経済 ]
by 日詰明男
コスタリカは1949年以来、平和憲法をもち、軍備を持たない。「兵士の数ほど教師を」というスローガンは理想に満ちあふれている。
ところがブッシュ大統領のイラク派兵を、あろうことかコスタリカ大統領は小泉のように支持してしまった。
それを一大学生のロベルト・サモラ氏が憲法違反として直ちに憲法裁判所に訴え、勝訴した話は有名である。
大統領はその判決に従って公式に訂正したという。
この経緯は伊藤千尋氏のサイトに詳しい。
http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20050808.html
一事が万事、コスタリカの国民性を象徴するエピソードだ。
一大学生が国家を動かしたわけだから、日本でもかなり話題になり、2005年2月に彼は来日しでいる。
私もTVの報道番組「news 23」で彼が取材されていたのを見た。
彼は日本の最高裁判所の建物の前に立ち「こんなに威圧的な裁判所ではいけない。もっと庶民にとって門戸の開かれたものでなくては。」と言っていたのを今でも覚えている。
ちなみに日本の最高裁判所は1974年に岡田新一によって設計された。彼はこの建築で日本建築学会賞を授与されている。
普通の感覚からすれば、この建築はナチスまがいの典型的なファシズム建築の類であり、私は賞賛する人の気が知れない。
中に入ってみようという気がまったく起こらない建築である。
体制におもねる判決しか出さないのも無理からぬことだと思う。
あの建築自体を憲法違反として訴えたい気分だ。
伊藤千尋氏のサイトによると、コスタリカでは8歳の児童が憲法裁判所に提訴し、勝訴した事例さえあるという。おそるべき子供たち、である。
国民は皆、自分の生命を守るために憲法の使い方を子供の頃から学ぶそうである。
片や、毎日のように大人が電車に投身自殺をし、乗り合わせた女子中学生が自殺者に対して暴言を吐く日本。
もしコスタリカのように憲法が使われていたならば、ほとんどの人が救われていただろう。
平和に貢献しようとする勇気ある若者に対して「自己責任」と総バッシングした日本人。
もしコスタリカのように憲法が使われていたならば、彼らは英雄だっただろう。
問題は「憲法を変えるか変えないか」ではなく「使うか使わないか」なのではないか?
ずばぬけた平和主義、民衆の側に立って機能する裁判所、利権による腐敗の起こりにくい選挙制度など、コスタリカから学ぶべきことはあまりにも多い。
もちろんコスタリカといえども少なからず問題や矛盾を抱えてはいるだろう。どの国にも光と影はあり、完全な国家などありえない。評論家の中には、コスタリカの矛盾だけをあげつらって「コスタリカ神話は幻想だ」と語る人もいる。
しかしこの国で効を奏した試みは誰にも否定できないし、他の国では見失われている好ましい国民性に対して、何が悲しゅうて目をそらす必要があるだろうか?
熱帯雨林を保護し、生態系から学ぼうとする姿勢も国民に浸透しているようだ。もちろん原子力発電など一基もない。この感性も平和憲法と無関係ではない。
コスタリカは九州と四国を合わせたほどの面積で、人口はわずか400万人。そのうちの25%は無条件に受け入れた難民だが、貧富の差はさほどではなく、教育にも差別はないという。
コスタリカと比較するに、日本という国家の規模は大きくなりすぎているのかもしれない。
日本はもはや大国であり、コスタリカのようなコモンセンスが形成されることはおよそありえないことに思えてくる。
「国」がヒューマンスケールを超えないためには、せいぜい400万か 500万規模で自治を目指すぐらいが限界なのかもしれない。
とすると、日本は県レベルに解体してしかるべきなのか。
借金をチャラにして、県よ、完全自治をめざしてゼロから出発せよ!と言いたいところだが、「独立」を軽々しく口にすることには特別なリスクが伴う。
秩父事件やチェチンがそうだったように、国家はこうした動きを徹底的に滅ぼそうとするから注意が必要である。東チモール独立もおだやかでは済まなかった。
国家はそういう習性のものである。
その「国家」のえげつない衝動はどこに由来するか。
口では偉そうなことを言っているが、結局のところ、既得特権を有する官僚、世襲政治家一族、その一族に食い込んだ企業役員が永遠に貴族として栄えようとする欲望、ただそれだけのことである。
国家が大きくなればなるほど彼らはスケールメリットを恣に享受できる。
そんな彼らにとって現憲法は目の上のたんこぶ以外のなにものでもなく、取り除きたくて仕方がないのだろう。
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2007-05-03 Thu [ 政治経済 ]
by 日詰明男
今日は憲法記念の日。世論は憲法改悪へ向かって着々と誘導されているように感じる。
ノーベル平和賞がスーチー女史やダライ・ラマの強い盾となっているように、9条は太田光が提案したように世界遺産等で守られるしかないのかもしれない。
事は緊急を要してきた。
約2年前に書かれたCesaro氏のブログから引用しよう。
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