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8月6日 七夕タタケタケ
by 日詰明男
西暦2011年の七夕は太陽暦で8月6日にあたります。

ここ数年、京都のギタリスト夢美路丈旁 take-bow yumiji 氏と毎年ささやかな七夕祭を開いています。
日詰は竹のオブジェを作り、集った友人、通りがかりの人々と竹の音具で月の入りまで「たたけたけ」を延々と奏でます。
そして丈旁が猿楽的な即興パフォーマンスを演ずるという趣向。

時 
西暦2011年8月6日(陰暦7月7日)午後8時ごろから月の入りまで

所 
京都出町柳デルタ

持ち物 
音具、酒、つまみなどお持ち寄りください。

========
口上

月と七夕

現代人は月の満ち欠けにまったく関心をはらわなくなってしまいました。
何が悲しゅうて、わざわざ梅雨の真っ只中に七夕祭りをやらなければならないのでしょう?
天体現象と同期しない祭にどれだけの力があるでしょう。
現代人が現実感を失ったと言われて久しいですが、まずこのあたりから取り戻さなければ。
月の状態は人間の精神活動のみならず、身体、ひいてはすべての生物、無生物に大きな影響を与えていることは疑いようのない事実です。

明治以降、日本人は欧米に追いつけとばかり陰暦をあっさり捨て、利便性からビジネス時計としての太陽暦に一本化してしまいました。
暦はもはや無味乾燥な「数字」あるいは「目盛り」でしかなくなってしまいました。

天体現象を無視し、ヴァーチャルな日常を生きる日本人が、原発を平然と受け入れてきたのも無理からぬことだったと言えましょう。

本来の七夕は、陰暦の正月から数えて7つ目の新月から7番めの月。
夏も盛りを過ぎ、「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」の頃合に行われる祭です。
当然梅雨空であるわけもなく、満天の星の下で先祖は宇宙に思い思いの夢想を広げていました。
天の川を渡るように見える上弦の月を舟に見立て、彦星(鷲座アルタイル)と織姫(琴座ベガ)が年に一回出会う、ロマンティックな物語。
そして七夕から満月というクライマックスまでの10日間がいわゆるアジアにおけるお盆の大セレモニーでした。

太陽暦はあくまでもビジネス時計として割り切って使えばいいでしょう。
しかし「祭」で月は主役です。
月齢に従った祭を取り戻すだけでも、人の心はより豊かになるでしょう。
「平日は仕事があって祭に出られない」という人は物事の優先順位というものをもう一度考え直してみてください。


|| 17:29 | comments (x) | trackback (x) | ||
七夕
by 日詰明男
今日は七夕、といわれる。

ところがそれは大間違い。
本来の七夕は今年は8月19日。
本来の正月から数えて7つ目の新月から7番めの月。
その日から満月までがいわゆるアジアにおけるお盆の大セレモニーである。
まさに「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」の頃合である。
当然梅雨空であるわけもなく、満天の星の下で先祖は宇宙に思い思いの夢想を広げていた。

日本以外のアジア諸国は太陰暦をかたくなに守っている。
そうあるべきだ。
天体運行と同期しない祭りに何の意味があろう。

太陽暦はあくまでもビジネス時計として割り切って使えばよい。
祭りに月は主役である。
月齢に従った祭りを取り戻すことが急務である。
それだけでも、人の心はもっと豊かになるだろう。

驚くべきことに、日本では僧侶ですらそれほど月齢にこだわっていない。
聖職者もビジネスに徹しているということだろうか。
一見自然に近いと思われる農家も、肥料や農薬のおかげで暦を以前ほど優先していないようだ。

意外なところで、サーファーほど月齢を気にしている人々もいない。
おいしい波に直接影響するからである。
彼らは携帯の待ち受け画面に毎日の月の状態を表示させているほどだとも聞く。

現代で最も自然と近いところで生き生きと生活しているのは茶髪のサーファーかもしれない。
聖職者としての彼らの話は傾聴に値する。


|| 23:43 | comments (x) | trackback (x) | ||
博士の愛した数式
by 日詰明男
映画「博士の愛した数式」をテレビで見た。
原作は読んでいないが、映画から類推するに、数学に過剰なロマンを与えすぎていることが伺われる。
「数学は世俗とは無縁の抽象的真実」という認識はあまりにもステロタイプである。
数学者を浮世離れした人格として描きがちな背景には、作家の数学コンプレックスがあるのだろう。
こうした表現は数学をかえって近寄りがたいものにしてしまう。

数学は世俗だろうがなんだろうが遍在する。
世俗を見くびってはならない。
「数学は現実の生のデータである」(スペンサー=ブラウン)

オイラーの公式e^(πi)+1=0は確かに美しいが、まるで信仰の対象のように取り上げるのはいかがなものかと思う。
オイラーが生きていたら、このような無用な神秘化を決して歓迎しないだろう。
長沼伸一郎著「物理数学の直観的方法」39-48頁を読むことをお勧めする。
わずか10頁そこそこで、この等式の「あたりまえさ」が中学生でも理解できるように解説されている。

あたりまえだからといってオイラーの功績が過小評価されるわけではなく、むしろ全く逆である。
当たり前のことにかぎって、人はなかなか分からないものである。
日常から神秘を発見する仕事も重要だが、今まで神秘と思っていたものが氷解し、日常化する瞬間にも、人は大きな感動を経験する。

いろいろ批判はあるが、この映画のラストシーンは出色だった。
これは文学では表現できない領域である。
演劇でもこれは難しいだろう。
映画ならではの仕掛けをうまく使った。
原作の不満を払拭し、昇華した観がある。

無常を超越した「時間」の哲学。
「逆流する時間」がさりげなく描かれている。

私は黒澤明の「夢」やタルコフスキーの手法と同質のものを見た。

早速調べると、この映画監督、小泉堯史氏はやはり黒澤の弟子だったそうだ。
彼は黒澤の良き後継者かもしれない。


|| 01:00 | comments (x) | trackback (x) | ||
グーグル ハッブル
by 日詰明男
一次情報図書館「Google Hubble」

Google Earthはすばらしい作品である。
このインパクトに比べれば、巷にあふれるどんなメディア・アートも色あせて見えてしまうほどだ。
インタラクティヴな操作性も申し分なく、莫大なデータがエレガントに包括されている。重くなるはずのデータを重く感じさせない工夫が随所に見られる。
汎用性もあり、実用としてのポテンシャルは計り知れない。
私たちはこれを使って、無限の情報を引き出すことができるだろう。
国連のような公的機関がこうしたサービスを提供したというならともかく、Google社という一プライベート・カンパニーが無償提供していることに驚かざるをえない。近年まれに見る気の利いた社会還元だと思う。

勝手な希望を言わせてもらえれば、次はぜひ「Google Hubble」を企画してほしい。
宇宙の全域をくまなくハッブル宇宙望遠鏡によるウルトラ・ディープ・フィールドの解像度で公開して欲しいのである。
Google Earthが完全無欠の地球儀ならば、Google Hubbleは究極の天球儀、あるいはプラネタリウムというところか。
これはヒトゲノム公開以上の重要なデータベースになるはずだ。

周知のように、ハッブル宇宙望遠鏡は1990年に打ち上げられ、多少のトラブルはあったものの、修理後は驚くべき天体映像を続々と撮り続けた。
中でも、1997年に発表された「ディープ・フィールド」と呼ばれる写真は圧巻だった。
http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:HubbleDeepField.800px.jpg

それは、従来最も星の密度が希薄とされていた北天の視野に向けて10日間に及ぶ観測をした映像だった。その観測精度は、月から地球上の蛍の光を観測することに匹敵するという。
視野角にしてわずか2.7分に満たない領域に、ハッブル宇宙望遠鏡の眼は無数にひしめく銀河を捕えた。この1枚の写真に驚愕した人は多いのではないだろうか。

定説となっているビッグバン理論からすれば、宇宙の誕生後それほど経っていない時期(およそ120億年前)にして既に無数の成熟した銀河が存在するわけで、どうして未だに宇宙論の革命的修正がなされないのか、私には不思議でならない。

この解像度の映像を、球面に隙間なく埋め尽くせば、私たちは実質的にハッブル宇宙望遠鏡の目を手に入れたも同然である。
恒星の世界はさほど変化しないから、更新を急ぐ必要もない。
計算すると、この解像度で全天球面を埋め尽くすには二千万枚あまりを必要とする。
仮にさきほどの写真が10センチ四方だとすると、直径130mのプラネタリウム球面が必要である。建設は今日の技術からして不可能ではないとはいえ、ヴァーチャル空間で実現したほうが賢明だろう。

それよりも、現実問題としてデータ収集が最も困難である。
視野角2.7分でさえ10日間も要したのだから、全天を埋め尽くす画像情報を得るまでには、単純計算で観測に2億日(54万年)必要ということになってしまう。
しかし、ハッブル級の宇宙望遠鏡を何本も打ち上げ、フル稼働させればかなり短縮できるはずだ。
これは荒唐無稽な話ではない。なぜなら、およそ30億文字からなるヒトゲノム解析も当初は天文学的時間を要すると思われていたが、その予想を裏切って、計画開始からわずか13年で塩基配列完全決定の宣言が発表された例を私たちは知っているからである。

ハッブル宇宙望遠鏡を飛ばすのに1本3000億円(10年間の維持費込)の経費がかかるという。私は全然高いとは思わない。もし税金に余裕があったとしたらぜひこういうことに使ってもらいたいものだ。

比較のために、コンクリート消費を目的として、全国各地に作られている無駄ダムは、建設に500億円かかるのが普通である。したがってダム6基ぐらいの資金があればハッブル宇宙望遠鏡が1基打ち上げられ、10年間運営できるわけだ。ちなみに今話題の箱物施設「私のしごと館」は総工費581億円である。
日本にはこのような死蔵物が無数にあるのだから、ハッブル宇宙望遠鏡を何台飛ばせたかわかりはしない。

猛禽類が上空を飛んでいる森林は健康な証しだといわれる。なぜなら、猛禽類は食物連鎖の頂点にあり、生態系の裾野の広さを示すものだからである。
アメリカは無意味な戦争にもっぱら国費をつぎ込んでいるので、ハッブル宇宙望遠鏡級の計画にはもはや積極的ではない。イラク戦争に96兆円費やしたというから、320基のハッブル宇宙望遠鏡を運営できた計算だ。
アメリカ上空に飛んでいた高貴な鷲は絶滅し、不毛な藪(ブッシュ)がはびこるばかりである。
ならば、他の余力ある国や企業が、積極的に宇宙望遠鏡打ち上げに出資してはどうか?NASAはアメリカから独立して多国籍研究所に昇格してもいいだろう。
国や企業が何本の宇宙望遠鏡のスポンサーとなっているか、それが経営状態の粋な指標となるだろう。

人は「それが何の役に立つのか?」と問うかもしれない。
Google Hubbleは人類が手にする最高の公共一次情報図書館になるだろう。
天文学者という、いままでごく少数の特権階級しか手にしえなかった第1級の天文データに誰もが自由に、無料でアクセスできるのである。
天文学はそうした無数のアマチュアの頭脳によって飛躍的進歩を遂げるだろう。
宇宙観のみならず、哲学が劇的に変わる。
これ以上の恩恵があるだろうか。


|| 14:27 | comments (x) | trackback (x) | ||
マイ・アーキテクト
by 日詰明男
建築家ルイス・カーンの作品を扱った映画「マイ・アーキテクト」を観た。
ルイス・カーンの息子が、父の作品を訪ねることを通して、亡き父の実像を追い求めていくというドキュメンタリーである。

かれこれ25年前、建築の学生だった頃、ルイス・カーンのバングラデシュ国会議事堂の図面に魅せられたものだ。その大胆なデザインは、近代建築の中で異彩を放っていた。
この映画の中で模型の映像や実物の動画が見られたことが何よりも嬉しい。あとはもう現地に行くしかない。

彼がエルサレムにシナゴーグを設計していたことについては不勉強にも知らなかった。
資金が集まっていながら瑣末な政治的理由で計画は頓挫しているという。
市長は「モスクよりも高い建築を建てると反感を買う」と上等の葉巻をくゆらせながら言い訳をしていた。
市長が建設資金を葉巻代に使い込んでいない事を祈る。

歴史上、すぐれたアイデアが、つまらぬ輩に足を引っ張られ、日の目を見ることなく永遠に埋もれてしまうことがどれだけあったことだろう。
だからなおさらバングラデシュ国会議事堂の存在は貴重である。
イスラム教徒が圧倒的多数を占めるバングラデシュで、着工後、カーン氏の死去や独立革命を経ながらも建設は引き継がれ、25年かけてあの国会議事堂が完成した事実は考えれば考えるほど深遠な意味を持っているように思える。
重機の無い地で、あの記念碑的建築は、文字通り、無数の人々の手で築かれたのだ。
その場所でムスリムが日々礼拝している。
現地の人々が、「カーンの建築は私たちに民主主義をプレゼントしてくれた。あの建築は私たちの宝だ」と涙を浮かべながら語る場面がある。

ユダヤ人が設計した建築をイスラム教徒が愛し、誇りにしているという現実に、私たちは真剣に向き合う必要がある。

建築を介して国境や宗教を越えた人々の結びつき、建築がもたらした心の豊かさの前に、ルイス・カーンの私生活やエゴは後退していく。これを偽善だと言ってしまったら、何人も崇高なことなど出来はしない。

フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルをあっさり解体した日本人はいったいこの映画をどう見るだろう。ああいうものを守らずして何を守るというのか?
専門家は地盤沈下や老朽化を理由に、帝国ホテルが解体されたことを正当化している。
でも世界各地の建築遺産を支える人々の熱意を知る者からしたら、そんなものは言い訳にしか聞こえない。

今この国の人は、誇りとすべきあの平和憲法を再び壊そうとしている。
何が悲しゅうて、自分をそこまで貶めるのだろう。
「美しい日本」などとナルシズムに耽るよりも、まず私たちの愚かさに気づくべきではないか?
自分の愚かさを認識することを「自虐史観」と言って攻撃する人々がいるが、自分の愚かさに気付いていない自尊心など子供じみた「虚栄」にすぎない。

ルイス・カーンの教会が、将来、エルサレムに建設されることを祈る。
それは三宗教の和解の象徴となるだろう。
彼の建築ならそれができるかもしれないと思った。
どんな政治家も、宗教家もなしえないことを、建築はなし得るのである。


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